岩屋城の戦い 岩屋の苔に【九州戦国合戦記/吉永正春02】
前回の続きです。
前回、書籍『九州戦国合戦記/吉永正春』に記される19章の合戦の中から、立花合戦の巻を読みました。

今回は『岩屋城の戦い』の巻を読みます。
書籍内の気になる箇所を参照させていただきながら(ありがとうございます)、見ていきたいと思います。ではさっそくスタートです。
大友義鎮(宗麟)は、九州制覇をめざし北上してくる島津勢に対し自力で対抗できず、豊臣秀吉に島津征伐について上訴します
そこで秀吉は↓
千利休、細川幽斎をもって降伏を勧告するのでした
だがしかし島津勢はこの勧告を拒否。そこで秀吉は(この時点で大友宗麟は秀吉の幕下となります)、↓
宿敵同士だった毛利家毛利輝元と大友家大友義統との和を命じたのち、
毛利家の吉川元春、小早川隆景を大友救援に差し向けたのでした。
一方、島津軍島津義久はといいますと、
大軍を率いて肥後に攻め入ります
当時の筑前において、大友直属の城は岩屋と立花のみ。岩屋城には高橋紹運、立花城には紹運の長子統虎(宗茂)が城を守っています。
はたまた、当時、筑前国随一の勢威を誇るのは秋月種実。こちらは無二の島津方です。大友VS島津。さて島津軍が北上すると、
各地で諸将が参陣。その数5-6万とも
一方の大友方(大友義統・高橋紹運そして立花統虎ら)は、
急使をもって救援軍の派遣を請うのでした
この時点で、
大友方に寝返っていた筑紫広門が降伏、島津の軍門に降ります
また
太宰府周辺に達した薩摩島津軍は岩屋、宝満の両城を囲みます。その数およそ4-5万の大軍
一方の立花(大友)方は、
三城合わせても3千ないし4千足らずの軍勢
高橋紹運(大友)はまず、↓
妻や女性子どもらを宝満城へ避難させ、自らは岩屋城に籠城することに
ここでの紹運の戦略というのは、
援軍到着まで小勢でどう戦うか
その点を主に、敵の侵入に備えたのでした。一方の島津薩摩軍は、
紹運方へ降伏勧告の使者を送り開城を迫るも、紹運は使者を城外に追い出します
そしていよいよ岩屋城への総攻撃開始。それから十日を過ぎ、島津薩摩軍は、↓
再び紹運方へ開城を勧めるも追い返されてしまいます
ついに島津薩摩軍最後の総攻撃。その結果、
岩屋城方は全員散華。紹運は高楼にとり登ると自刃
高橋紹運辞世の句がこちら。↓
かばねをば岩屋の苔に埋てぞ雲井の空に名をとどむべき
全員壮烈な最期を遂げて、岩屋城は落城するのでした。

さらに
島津軍は立花城へと迫ったが、毛利勢が救援のため豊前に上陸
すると島津軍は、
立花攻めを放棄して撤退
秀吉は九州平定後、
高橋紹運の長子立花統虎(宗茂)を柳川の大名に任じその功に報いたのでした
(※立花宗茂のお話はこちらで!↓)
(※岩屋城のお話はこちらでも!↓)
終わり。

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