立花合戦 本国への逆攻勢【九州戦国合戦記/吉永正春01】

書籍『九州戦国合戦記/吉永正春』を読みましたので、今回はそのお話をしたいです。

こちらはその名の通り、九州で知られる合戦を19章に分けて精緻に描いた合戦記。

その中から、福岡にまつわるお話を2つ選んで2回にわたってご紹介します。

気になるポイントを参照させていただきながら(ありがとうございます)、学んでいきたいと思います。

 

今回は『立花合戦』について。立花城に関する説明からお話は始まります。↓

立花城は14世紀前半に豊後の大友貞載が築城。古来「多々良川を制する者は博多を制す」といわれており、また立花城は当時、筑前国における最大軍事拠点であった(p131)

とのこと。

中国地方の大内氏が少弐氏を破って筑前国から追い出し博多を掌握

だがしかし、

大内義隆はクーデターにより重臣陶晴賢に攻められ自害

することに。その流れから、

大内氏に抑えられていた大友義鎮が武力をのばし、九州最大勢力になります。大友義鎮は大友宗麟と名乗ることに

一方の大内側。大内の自滅後、↓

大内の遺臣毛利元就は陶晴賢を討ち、秋月・原田・筑紫・宗像ら国衆を誘い味方につける

のでした。なかでも、↓

宝満山城主高橋鑑種と立花山城主立花鑑戴は大友一族だったが、毛利の後押しで反旗を翻します

なるほど大きくみると、立花合戦というのは、豊後大友VS中国毛利(大内)という形での北九州での覇権争いのようです。

毛利軍上陸。毛利側は立花東城の立花鑑戴(大友側→毛利側)に、西城の怒留湯融和泉(大友側)を討ち果たしたのち立花城へ陣を移すことを勧める

そこで鑑戴(大友側→毛利側)は、まず薦野(大友側)・米多比(大友側)の両氏に毛利随身の同意を求めるも、↓

両氏とも加担しないため謀殺することに。さらに西城を攻めるも、怒留湯融和泉(大友側)は脱出したあとでした

毛利軍は立花城下に入り、大友軍の来攻に備えます。そして大友軍の攻撃開始。↓

戸次鑑連(大友側)は密かに立花鑑戴(大友側→毛利側)の将と内通し、秘密裏に城内へ攻めこむことに成功

こうして立花城は陥落するのであった。

毛利軍は長門に退却。立花鑑戴(大友側→毛利側)は青柳付近で自刃。(※青柳地区のお話はこちらでも!↓)

さて、ここでちょっとひと休み。

現在に伝わる立花城の落城秘話を一つ見てみたいと思います。

鑑戴(大友側→毛利側)の妻は(p137)、↓

幼児を抱いて立花城から脱出。追っ手に逃れて橋の下に身を隠しました。幼児が急に泣きだしたけれど、必死に観音経を念じたら、幼児は泣き止み、なんとか落ちのびることができたのでした

どうです?聞き覚えがありませんか。そうご名答。

唐津街道を辿った時、通り沿いに『夜泣き観音』なる小祠が祀られており、説明書きを読みましたよね!?↓

では合戦のお話に戻ります。

その頃、肥前の龍造寺氏も大友氏に抗して交戦状態となります。さらに

毛利軍が小倉に着陣し、立花城を攻めるべく進撃を開始

するのでした。大友宗麟はまず龍造寺氏と和平し、それから戸次らを立花城救援へ向かわせます。

一方、立花山麓に着陣した毛利軍は

陣地を構築、山麓を包囲するように攻撃態勢をとる

そんな毛利軍に対し大友軍は

さらにそれを遠巻きにする形をとる

最終的には、城中での食糧が尽きついに立花城は開城。毛利軍に降りることになるのでした。

大友毛利両軍はというと、のち5月18日に多々良浜でも合戦をします。

(※また別の多々良浜の合戦もあって、そのお話はこちらで!↓)

小早川らの毛利軍に対して、大友の主将は戸次鑑連(道雪)。鑑連(大友側)は小早川勢(毛利側)の長尾の地を攻撃。↓

長尾は現在の福岡市東区水谷地区の辺り。

位置関係はこんな具合。↓

(※東区水谷界隈のお話はこちらでも!↓)

戦局はじりじり膠着するも、ここで大友宗麟(大友側)はとある戦略に打って出ます。それは

毛利本国への逆攻勢

すると毛利元就は、↓

全軍撤退を厳しく命じ、宝満山城主の高橋鑑種(大友→毛利)は大友に降伏

ついに毛利氏が抱く北九州制覇の夢は破れるのでした。その結果、

立花城には戸次鑑連が城督として任命、戸次鑑連は立花道雪と名乗ります

それから

岩屋城の高橋紹運の子立花宗茂が立花城城主に

(※立花宗茂のお話はこちらの記事で!↓)

宗茂はのち柳川城へ移り、立花城は小早川隆景に与えられることに。さらに小早川隆景は名島城へと移るのでした。

(※名島城についてはこちらの記事で!↓)

終わり。


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