【黒田家三代 戦国を駆け抜けた男達の野望/池田平太郎著】

書籍【黒田家三代 戦国を駆け抜けた男達の野望/池田平太郎著】を読みましたので、今回はそのお話です。

いつものように気になる箇所を参照させていただきながら(ありがとうございます)、皆さまと見ていければと思います。

よろしくお願いします。ではさっそくページをめくりましょう。まずは黒田官兵衛の波乱な人生から。↓

黒田官兵衛は播州姫路城で生まれました

そして、↓

22歳で結婚。家督を継ぐと同時に小寺家の家老に就任します。翌年長政誕生(p9)

30歳になった官兵衛は織田信長に拝謁、傘下に入ることを申し出ます。↓

すると信長は官兵衛に対し、

秀吉の麾下に入るよう命じ(p13)、そして秀吉は官兵衛の前に竹中半兵衛を招じ入れる

こうして二人の軍師が揃い立つのでした。さてある時、

織田信長の軍団長荒木村重が織田家に反旗を翻す事件が発生

そこで説得の使者として白羽の矢が立ったのが黒田官兵衛だけれど、

小寺政職と示し合わせた村重によって、有岡城に幽閉されてしまいます(p18)

その期間1年。ようやく信長自ら鎮圧に乗り出し、有岡城は陥落。官兵衛は救出されたのでした。

官兵衛は秀吉軍に復帰。明智光秀が軍を反転させ信長を襲撃。本能寺の変である。信長49歳、襲撃され死亡(p41)。

秀吉は、

明智光秀を破り柴田勝家を葬り、ついに天下を手中に納めるのであった

書籍は第2章へ。ここからは黒田家の歴史を辿ります。↓

元々播磨国の中小豪族であった小寺家の家老に過ぎなかった黒田家。

その黒田家に最も早く官兵衛に仕えたのが栗山善助で、次が母里万助。この万助の実弟が母里太兵衛(p48)

母里太兵衛についてはこちらの記事も。↓

また、↓

のちに長政といざこざのある後藤又兵衛も官兵衛の弟子の一人であった

さて長政は16歳にして秀吉軍の一翼を担い(p54)、

九州征伐後には豊前国八郡のうち六郡が与えられました

(※中国戦役で秀吉と矛を交えた中国地方の雄毛利輝元の、叔父にあたる人物が小早川隆景)

(※小早川隆景についてはこちらの記事も!↓)

居城を中津城に写し足場を固めていく黒田家。秀吉の朝鮮侵略において黒田軍は、↓

長政を主将として第三軍に任じられます(p79)。戦況悪化の立て直しに秀吉は官兵衛に渡海を命じるも、官兵衛は無断で帰国(p85)

それから官兵衛は黒田如水として隠居の身となり、黒田家は長政の時代へ入っていくことになるのでした(p94)。

 

ここから書籍は第3章へ。

侵略戦争は秀吉の死とともに終わりを告げます。そして関ヶ原の合戦。長政の暗躍もあり家康が勝利します(p126)。黒田家は、↓

豊前六郡に替えて筑前一国を賜わることに

当初名島城に入るも警固村福崎の地を福岡と改めて城を築くことに(p129)。

(※名島城についてはこちらの記事も!↓)

(※福岡城についてはこちらの記事も!↓)

さてここから第4章へ入るわけですが、閑話休題。

 

博多の歴史を振り返ります。↓

博多では12世紀に入ると、日本初の人工港湾施設「袖の湊」が建設され、日宋貿易のためのインフラ整備が整えられました(p147)

そののち、↓

港がある北東部「息浜」を大友氏が、南西内陸部「博多浜」を少弐氏が治めていたといわれています(p148)。

それから大内氏が少弐氏を一掃し、博多は大内氏と大友氏の共同統治に

そして↓

大内氏は一気に豊前から筑前までを勢力下に置くも、陶晴賢のクーデターで滅亡。間隙を縫って博多支配を宣言したのが大友宗麟

ですが、↓

大友氏は島津氏に敗れ凋落。秀吉の来援により九州は平定されることに。

旧来の「息浜」「博多浜」という両地域は完全に一体化、近世博多が誕生するのであった

(※袖の湊のお話はこちらの記事も!↓)

(※大友宗麟についてはこちらの記事も!↓)

では黒田家のお話に戻りましょう。↓

1602年、黒田忠之誕生。1604年、黒田官兵衛孝高没(p154)

そして

萬徳丸が元服、忠之と名を改めます

ここから第5章へ。

大坂夏の陣で豊臣家滅亡。さらに時を経て、↓

長政が息を引き取り、崇福寺に葬られることに。ここで黒田家の戦国の世が終わります

(※崇福寺についてはこちらの記事も!↓)

黒田家の家督は黒田忠之が継ぎ、福岡藩二代藩主に。

ではいよいよ最終第6章へ入ります。

 

忠之を補佐する立場にいた栗山大膳。長政は忠之の気性を危ぶみ廃嫡を考えるも大膳が反対しとりやめになりました(p205)。

そして長政が死去して二年後のこと。

忠之は鳳凰丸事件を起こす(p207)

これは↓

鳳凰丸という大船を大坂湾に止めたまま有馬温泉で休んでいたのが、幕府大坂御船奉行の目に留まったもの

事件は結局事なきを得るわけですが、次第に忠之と大膳は「いつ火がつくか」というシビアな間柄になっていきます(p218)。

徳川秀忠の葬儀に参列すべく江戸へ上った忠之が筑前へ帰ってきた際、

迎えの中に大膳の姿が見えません

そこで両者は一触即発の様相。ここでは忠之が押し止められ、危機は回避されることになったのでした。

だがしかし、一段落するかに見えた騒動でしたが、大膳はなんと、

忠之に謀叛の企て有り

と訴え出たのです。そのため、↓

江戸へ召し出される忠之と大膳。結局一滴の血も流すことなく解決することになりました

これが黒田騒動のあらましだそう。それから時は過ぎ、

忠之の息子である三代藩主光之もまた、第二の黒田騒動を招くのであった

終わり。※書籍「黒田家三代 戦国を駆け抜けた男達の野望/池田平太郎著」より参照させていただきました。