面あからみてさす夕日かな【大隈言道/桑原廉靖著】
書籍『大隈言道/桑原廉靖著』を読みましたので、今回はそのお話です。

では書籍内の気になる箇所を参照させていただきながら(ありがとうございます)、皆さまと見ていきたいと思います。
まずお話は言道の生い立ちから始まります。↓
大隈言道は福岡薬院抱安学橋に生まれる。父は財をなし藩に寄進。苗字帯刀を許された
その父そして兄が他界し、↓
8歳で家督を継ぐことに。言道は二川相近に書と和歌を習うことになります
言道の師である二川相近は「黒田節」を筆頭に百数十の今様和歌を残し、
中には「想夫恋」として歌われる歌もある
とのこと。で、大隈言道はといいますと、
ざっと時を経て35歳ころから従来の歌風を破った歌を詠み始め、積極的に弟子をとり熱心に指導する
ことになります。

それから39歳になると今泉に隠棲。

この家をささのやと名付けるのでした。

(※ささのやについてはこちらの記事も!↓)
42歳で豊後日田の広瀬淡窓の私塾咸宜園に入塾。
45歳を過ぎた時には門弟100人以上。中でも抜きんでていたのが野村望東尼と言われているそうです。

60歳になると、↓
歌集を出すため大坂に上ります。7年かかって悲願の歌集「草径集」を上梓。さらに4年を大坂で過ごして帰福
その大坂にいる言道を望東尼が訪ねた紀行文が『上京日記』で、この一年半の旅路が望東尼に大きな影響を与えたといいます。
(※望東尼についてはこちらの記事も!↓)
のち言道は71歳で生涯を閉じ、妻と同様、香正寺に葬られることになります。(※香正寺についてはこちらの記事も!↓)
香正寺にある玉垣には、佐々木信綱の名が刻まれており、

その佐々木信綱によると、↓
言道の歌における主張は、○個人性の発揮と高調力説せしこと○歌の想の広がるべきを説ける○地方的特色を詠むこと○用語の自由を主張せしこと p133
とありました。

言道は、↓
市井に住む庶民の見た世界を平易な言葉で詠み続け、郷土福岡の歌を多く作った
けれど、当時の歌壇で認められることはありませんでした。が、
後年、佐々木信綱が古書店で「草径集」を読み称揚したことで、世に広く知られるように。
家業が酒屋の言道には酒に関する歌もあって、書籍にはこんな歌が紹介されていました。↓
秋の夜のさびしき今時は友もなし海苔を火にあてて独こそのめ
しみじみ。終わり。
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