東洋のアリストテレス【福岡人物誌 貝原益軒/岡田武彦監修】

今回、書籍「福岡人物誌 貝原益軒/岡田武彦監修」を読みましたので、そのお話をしたいです。

いつものように気になる箇所を参照させていただきながら(ありがとうございます)、貝原益軒について学んでいければと思います。

ではさっそく始めます。よろしくお願いします。さてそもそも貝原益軒という人物は、↓

江戸初期から中期にかけての偉大な儒者であり、没する前年の84歳にまとめた「養生訓」、また80歳で大成した「大和本草」は広く愛読されています(はじめに、より)

とのことで、その生い立ちに関しては、↓

福岡城内東邸で寛斎の五男として生まれました。通称である久兵衛は祖父の名で、藩主光之から賜ったもの。幼少期は古典を愛読(※p18)

だそう。

のち19歳になると益軒は出仕。

出仕先は藩主忠之の衣服調度の出納係の近侍でした。21歳で免職となり7年間浪人生活を送ることに。その間長崎を訪問し、積極的に医学等を学ぶ(p21)

それから父の世話のため益軒は江戸へ向かうわけですが、

江戸へ向かう前に医者になります。それから、藩主忠之の死にともなって黒田光之公に再出仕することになりました(p23)

再出仕することになった益軒は、京都遊学の命が下り京都へ向かいます。

京都では木下順庵と交流。学友的な交情があった。向井元升・宮崎安貞とも出会いよく往来する

こうして遊学を終えた益軒。↓

帰藩したのは35歳の時。39歳で秋月藩士の娘初(東軒)と結婚します。また当時朱子学を尊崇していた益軒は「近思録備考」を出版しました

私生活では、↓

福岡城城郭に近い荒津東浜(荒津町)に邸宅が与えられ、終生の居とする

1688年には、

「筑前続風土記」編集の許可が下り、筑前領内の調査を命ぜられることに(p39)

精力的に活動する益軒が最も信頼したのが甥の好古でしたが、37歳で亡くなります。

益軒はというと、

名所見物が一段落すると、古楽の稽古に励むようになります(p44)

1698年に京都へ向かった際には、↓

京都から有馬へ湯治に赴く益軒。この年の末、南蛮渡来の酒にあたり重体に。この経験が「養生訓」に活かされたのでした

1700年、辞職。そして1713年、↓

東軒夫人が62歳の生涯を終えることに。またその年の8月、益軒は病状が悪化し息を引き取ることに。金龍寺に葬られました

(※金龍寺のお話はこちらで!↓)

さて、生前、益軒は卓越した儒学者で実学者であり、著書は百数部にのぼるといいます。また書物1353部を読破した博学多識の人物とのこと。

また、益軒は↓

36歳から朱子学を信奉しますが、晩年には疑問を抱いて批判するようになりました

それから益軒の科学的業績としては、名著「大和本草」が挙げられます(p86)。↓

これは79歳の時に成ったもので、真摯な研究のたまもの

とのこと。

終わります。

(※書籍「福岡人物誌 貝原益軒/岡田武彦監修を参照させていただきました」)