最後の博多商人【悲劇の豪商 伊藤小左衛門/武野要子著】
書籍『悲劇の豪商 伊藤小左衛門/武野要子著』を読みましたので、今回はそのお話をしたいです。こんにちは。
いつものように気になる箇所を参照させていただきながら、伊藤小左衛門について学んでいければと思います。よろしくお願いいたします。

ではさっそくページを開きます。↓
伊藤小左衛門のルーツは、おおよそだけれど筑前木屋瀬と考えられています(p40)。木屋瀬は江戸初期から米市場であったことは間違いないようです(p46)
そう考えられる一方で、↓
伊藤小左衛門の出身地として、青柳があげられます(p47)
ともありました。

青柳についてはこちらの記事も!↓
そして
この地から伊藤小左衛門は当時最大の港町博多に進出し、そこに居つくことになるのでした(P49)
港町博多といえば、↓
1587年、島津義久は秀吉に降伏し九州平定(p55)。太閤町割りが始まり、近世都市博多が幕を明けました
さて、伊藤小左衛門父子の経営はというと、↓
利貸し、鉄売買、米穀売買を中心とする福岡藩の御用(長崎御用)、糸割符貿易、小判の鋳造と多角的であった(p87)
とのことで、また、↓
伊藤小左衛門父子は投銀(内外の貿易商人への高利の銀の融資)を経営の重要部分と考えていたようだ
だそうです。当時、博多藩は鉄を自給できず、↓
そこで小左衛門は鉄を探り当てることに成功(p111)。小左衛門は肥前に伊万里焼を求め、その見返りとして鉄を売っていた(p118)
とも。
伊藤小左衛門父子は本拠を博多に置き、西は管理貿易港長崎、東は北陸にいたるまで商域は広大であった(p137)。出雲で鉄を買い入れ博多・肥前で売りさばく。米が不作の時には北陸まで買い集める。広域的で多角的。典型的な問屋商人であり、のち非合法貿易へと発展していくことに
そんな伊藤小左衛門父子はというと、↓
初代小左衛門が経営の基礎づくりに成功し、二代目小左衛門が博多商人グループリーダーとして経営の枠を拡げていきました。その時に密貿易事件が起こるのであった(p148)
その顛末はというと、↓
武器を朝鮮に売りさばいていたことがお上に訴えられます。そのため当時の藩主光之公は家来に命じて見張ることに
いなみに小左衛門が朝鮮に運んだものというのは、↓
硫黄、槍、鳥銃等ならびに金。朝鮮官憲と一体となって密輸を行っていた(p156)
とのこと。
この密輸貿易である小左衛門事件において処刑された人は、実に百数十人にものぼるといいます
伊藤家の菩提寺が妙楽寺であり、妙楽寺には伊藤小左衛門のお墓が。また、博多の町人学者奥村玉蘭著「筑前名所図会」にはこんな記述があるとのことで、↓
万四郎恵比須神社は伊藤小左衛門の屋敷裏側にあり。家の奥に長く狐が住む。小左衛門が長崎で磔になり伊藤家が亡びた時、狐も死んだので、稲荷にまつったという(p186)
妙楽寺。↓

妙楽寺にある、↓

伊藤小左衛門のお墓。

万四郎恵比須神社と、↓

説明書き。↓

ちなみに恵比須神は航海・運輸を生業とする商家が好んでまつった福神の一つなんだそうです。
(※万四郎恵比須神社についてはこちらの記事でも!↓)
終わり。(※書籍『伊藤小左衛門/武野要子著』から参照させていただきました)

