筑豊の大地で【筑豊一代炭坑王伊藤傳右衛門/宮田昭著】
書籍【筑豊一代炭鉱王伊藤傳右衛門/宮田昭著】を読みましたので、今回はそのお話です。こんにちは。

いつものように、気になる箇所を参照させていただきながら(ありがとうございます)、皆さまと一緒に見ていこうと思います。
よろしくお願いします。では始めます。↓
伊藤傳右衛門は筑前国穂波郡幸袋村(飯塚市)に長男として生まれます。父は目明し(犯罪者の探索や逮捕に協力した町人のこと)であった。11歳で傳右衛門は呉服屋へ丁稚奉公へ(p20)
それからのち、↓
父は幸袋で魚問屋を開店。傳右衛門も働き手として船頭などに携わることに
西南戦争が起きると、
傳右衛門は軍夫に志願し、18歳の時、熊本方面で弾丸運びの任務につき(p24)
戦後は船頭にもどります。父が藩の役人で区長であった松本潜の配下になると、↓
松本が新しく始める炭坑において、下っ端の目明しであった父は坑夫社会の親分になったのであった(p28)
こうして炭坑の世界に根を伸ばしていく伊藤家。↓
伊岐須炭坑が、傳右衛門が従事した最初のヤマ(p29)、
そして29歳でハルとの結婚。日清戦争を機に筑豊炭田に石炭景気が訪れます。父傳六が61歳で亡くなると、↓
傳右衛門が家督を継ぐことに。相田炭坑を継承、牟田炭坑を開坑。これらは中野徳次郎との二人三脚での事業であった(p38)
のだそう。ちなみに傳右衛門の生涯は、炭坑業と工作所がその骨格であったとありました(p42)。それから、↓
傳右衛門は麻生太吉が頭取をつとめる嘉穂銀行の取締役になり、つづいて政界に進出。所属したのは政友会(p49)
46歳になると、↓
中野徳次郎と共同経営していた牟田炭坑を独立して経営(p55)
牟田炭坑では大断層を抜き払い、良質の石炭に遭遇。そこで傳右衛門は巨利を得るのでした。筑後の炭坑主にはトップグループが形成され、それはこんな具合。
まず貝島太助。そして安川敬一郎。それから麻生太吉。5位に傳右衛門(p85)
(※貝島家についてはこちらの記事も!↓)
国会議員を退いた傳右衛門は、筑豊石炭鉱業組合の常議員に。また、↓
妻ハルが45歳で亡くなると、伯爵令嬢柳原燁子と再婚(p120)
この炭坑王と伯爵令嬢の結婚(再婚どうし)は大ニュースになったとのこと(p129)。
そんな燁子は大正4年はじめての歌集「影絵」を刊行。ここに歌人白蓮が誕生するのであった(p166)。(※柳原白蓮についてはこちらの記事も!↓)
時代は大戦景気で石炭需要はうなぎのぼり(p168)。
白蓮(燁子)は一流歌人の名高くして「筑紫の女王」として知られるようになります(p178)。
その女王白蓮(燁子)36歳。宮崎龍介との出会いからの失踪(p199)。
「大阪朝日新聞」社会面が失踪の記事を埋める
これが世を騒がせた白蓮事件(p294)で、↓
燁子と龍介の綿密な打ち合わせの上での決行であった
なのだそうです。一方の傳右衛門にとっては、絶縁状を渡され新聞上に公開されるという屈辱を浴びる結果(p212)。
さらにそんなさなか、福岡市天神街に「銅御殿」が増築され落成。これは、
現在の福岡銀行から福岡証券ビルに至る一帯であった
とのことで、そのお話はこちらの記事でも是非。↓
さて白蓮事件が起きた1921年は、炭坑界は不況真っ只中。各地で労働運動が広がります(p234)。
そして昭和へ入っていくと、なんと件の銅御殿が焼失(p246)してしまうことに。また筑豊御三家の安川敬一郎の死を機に、炭坑の栄華も次第に過去の物語になっていくのでした(p272)。
太平洋戦争勃発すると、今度は福岡大空襲によって天神別邸が灰燼に帰すことに。敗戦(p325)を迎えます。
(※福岡大空襲についてはこちらの記事も!↓)
そして昭和22年、伊藤傳右衛門88歳。幸袋の自宅で波乱の人生に幕を閉じるのでした(p334)。
終わり。
※【筑豊一代 炭坑王伊藤傳右衛門/宮田昭著】より参照させていただきました。



