神功皇后も秀吉も隆景も名島に集合【妙見島】

古くからの言い伝えによりますと↓

神功皇后は、ある時にお告げを受けて、ここ東区名島の地から三韓出兵へ向かいました。その際、従軍する兵士たちにそれぞれ名前を名乗らせたのでした

そして↓

そのことから、この地が『名島』という地名になったといいます

こんにちは。

さて前回は、福岡市東区の名島地区にて、【帆柱石】だとか

【縁の石】といった

『神功皇后』に関わりのあるお話をしてきたわけですが↓

もう一つ『神功皇后』にまつわるお話があるんです。それが【妙見島】。↓

さっそく案内パネルを読んでみたいと思います。↓

妙見島はかつて神功皇后の三韓出兵の際、船具を保管した島なり。島が埋め立てられる前は、潮が引くと歩いて渡ることが出来た

そうなんです。島は埋め立てられていて、今はもう見ることができないのであった。

かつての【妙見島】は、名島海岸から200mほどの沖合いにあり、島のサイズは100m×50m×標高10mほどの小さな島だったとのことで

さっきの写真から推測すると、あの白いマンション辺りに【妙見島】があったんじゃなかろうか。↓

とりあえず、近づいてみることにします。正解ならば、島に関するなにかしらがあるかもしれませんし。

 

ということで、海岸沿いの『帆柱海岸通り』を↓

右へ向かいます。ちなみに、ここから、通りの名前は『帆柱海岸通り』から『妙見通り』に変わるみたい。↓

そのまま岸壁沿いを歩いていると↓

『妙見島』に関するパネルがありましたので↓

ざっと読んでみるとこんな具合。↓

小早川隆景の名島城時代のお話では、豪商が妙見島で茶会を開き隆景公をもてなした。その茶会で使われた井戸の跡が今でも残っているのだ

井戸の跡が残っているらしい。写真をよくみてみると『太閤秀吉公茶遊井戸跡』と記されている。

つまり、秀吉もここ名島に訪れた際に、この地(妙見島)で開かれた茶会でもてなされたということでしょう。↓

そういえば「神功皇后」もまた

名島海岸沿いで三韓出征の凱旋パーティーを開いていましたね。↓

それはさておき、気になる白マンションのその右隣りには『城浜ふれあい公園』があって↓

その公園入り口にこんな案内板が立っていました。↓

写真を見ても、やはりこのマンションのところが『妙見島』跡だと言えそうです。↓

ですが、公園内に『妙見島』にまつわるものは見つからなかったのであった。↓

そこでマンションの敷地内に、というわけにはいきませんので、海岸沿いの脇のところからそっと見てみます。↓

あの辺りかなと思ったけれど、なんだか違う気もするし。これもう分かりません。ギブギブ。知らん知らん。

結局、井戸の跡は分からずじまいで、私は悲しみに包まれたのであった。またいつか訪ねてみても、結果は同じに違いないだろう。おわり。


【名島海岸】

福岡市東区名島1丁目29