残念。【西日本人物誌 平野國臣/小河扶希子著】
今回、書籍「西日本人物誌 平野國臣/小河扶希子著」を読みましたので、そのお話をしたいです。
いつものように気になる箇所を参照させていただきながら(ありがとうございます)、平野國臣について学んでいければと思います。

(※以前サイト内で平野國臣について扱ったこちらの記事も是非↓)
さてページをめくるとまず、「はじめに」の箇所に平野國臣についての概略が記されています。↓
平野國臣は江戸赴任中「ペリー艦隊」到着の渦中にいた。さらに開国政策で大騒動の長崎に赴任。威圧的な外国人と屈辱的な日本側役人の姿を見ていた
続きます。↓
國臣は妻子を捨て養家を去り討幕論を掲げて幕末の激動へと駆け出すのでした
とのこと。それでは本章へ入ります。平野國臣の生い立ちから見ていきましょう。↓
福岡市地行に生まれる。父は福岡藩の足軽であったが、武芸師範を数十年勤めた
11歳になると、↓
父母を離れ奉公へ。18歳で福岡藩に仕官。太宰府天満宮の楼門修理に関わったことから大きな影響を受ける(p21)
18歳の冬には、↓
江戸藩邸勤務となる。国際勢力が日本へ押し寄せる情勢のもと、國臣も渦中へ引き入れられます
21歳で帰郷し結婚。↓
24歳の春、宗像大社沖津宮の普請方として宗像郡大島に赴任。お由良騒動で追われた北条右門と大島で知り合う。この出あいが、倒幕・日本統一へと向かう國臣の人生を大きく飛躍させるのでした(p26)
そして、↓
黒船来航を直前に、2度目の江戸藩邸勤務となる(p29)
國臣はこの黒船騒動に対する幕府の態度に失望します。↓
福岡へ帰郷し28歳になると、長崎に赴任。当時の長崎は海軍伝習所が設置されるなど活気に満ち溢れており、その刺激を國臣は感じていたのでした(p34)
一方で、↓
國臣の目に映る外国人の態度は許せないものであり、また日本側役人の卑屈さに國臣は憤ります
さて当時の國臣の精神を貫くのは孔子であり孟子であり、また、↓
ライフワークであった有職故実の研究にも明け暮れ各地へ取材へ出かけた(p38)
とも。それから30歳になった國臣は、↓
この国の臣として立ち日本国統一を目指すため、養家を去り平野姓に戻るのでした(p40)
秋月藩坂田塾に入門し古典を学び、倒幕論を確立(p42)。そんな中、京都では安政の大獄という弾圧が始まります。↓
西郷隆盛は僧月照の都落ちに同行。かろうじて大坂を脱出し、鹿児島へ船出(p49)
西郷を待つも幕府の追跡方が博多に入りこんでいるという知らせが。
月照を薩摩へ送り届ける役に國臣が決定(p53)
城下に辿り着く一行。そこへ薩摩藩からの命令が。
その命令を西郷は月照を殺害するつもりと受け止め、心中を試みます。西郷は蘇生、月照は逝く。國臣は天下のお尋ね者に
そして「桜田門外の変(井伊大老襲撃事件)」の知らせが筑前へも届きます。國臣は厳しい捜索を逃れ各地を転々としている。ちなみに、
國臣の「倒幕論」はまず「幕藩体制」を終わらせ日本を統一。雄藩を連合し戦わずして幕府を解体。雄藩連合のトップは薩摩
しかし薩摩にはそこへ至るまでにまだ時間が必要でした。
福岡藩主、参勤交代取りやめて引き返す。35歳の國臣は日華丸で捕えられ桝木屋の獄に収監される
この桝木屋で國臣はこより文字を編み出し、歌そして論策の全てをこより文字で著しました。

(※桝木屋の獄についてはこちらの記事も!↓)
それから11ヶ月のち出獄。國臣36歳。長州藩は攘夷実行に踏み切ります。
國臣は野村望東尼を訪ね、それから高杉晋作と会見
(※望東尼についてはこちらの記事も!↓)
そして京都へ向かう國臣。京都では「八月十八日の政変」が起き、長州藩は禁門の警備を解かれることに。
國臣は城崎温泉へ向かう途中、豊岡藩に連行され禁固の身に(p134)。
姫路藩へ引き渡され京都の六角牢へ
「禁門の変」の騒動を機に破獄を企てないよう処断が決定され、↓
國臣は処刑されることに。埋葬地は竹林寺
平野國臣の生涯をかけた目標は、↓
封建制を終わらせ日本を統一。そのため雄藩連合し幕府を解体させる
だがしかし。國臣の死から維新までまだあと4年の時を待たなければなりません。國臣の存在はあまりにも早すぎたのでした。終わり。

(※書籍「西日本人物誌 平野國臣/小河扶希子著」より参照させていただきました)


