スレート瓦【米軍ハウスの世界/春日ベース・ハウスの会編】

書籍【春日市内の米軍ハウス調査記録 米軍ハウスの世界 あのころ、春日のまちにアメリカがあった /春日ベース・ハウスの会編】を読みましたので、↓

今回はそのお話をしたいです。こんにちは。

書籍内の気になる箇所を参照させていただきながら(ありがとうございます)、皆さまと一緒に見ていきたいと思います。よろしくお願いします。

ちなみに以前、春日ベースの跡を辿ってみたお話をしたことがありますので、↓

その時の様子と照らし合わせながら、今回も学んでいければ幸いです。

では始めます。まず書籍を開くと、米軍ハウスの定義として↓

春日、大野城両市にまたがって米軍基地がありました。米軍基地の外の民有地に建てられた軍人向けの住宅が米軍ハウス

とありました。建物の特徴としては、↓

平屋の一戸建て木造住宅。壁はモルタル塗り。広さは最も多く見られるのは2dk(p3)

なのだそう。そして建築年代は、

1952年ころから1963年ころの10年間程度

とのこと。米軍基地が出来る歴史の流れとしてはまず、↓

太平洋戦争が終わり米軍の進駐が始まり、多くの施設が接収

この時、春日原地区にあった陸軍小倉造兵廠春日製造所も接収されたわけですが、

こちらはもともと

この地にあった競馬場や山林原野を買収したもの(p8)

であり、その跡地に米軍基地が出来たということみたい。

基地外にあった「米軍ハウス」に対し、米軍基地内にあった「春日原住宅地区」というのはどんな様子だったのか。↓

階級ごとに分かれたクラブ、ボーリング場、スケート場、野球場、体育館、プールなどがあり、教会、劇場(映画館)、売店、食堂、クリーニング、FEN(極東放送)のスタジオも並んでいた(p12)

のだそう。ちなみに以前、こちらの記事内にて、

雑誌「Kasuga」より当時基地内の地図を書き写させていただきました。

いまいちど確認してみます。こんな具合。↓

1950年に朝鮮戦争が勃発すると、板付基地からはたびたび米軍基地が飛び立ったといいます(p10)。

 

それから書籍内には基地にあるゲートに関するお話もありました。↓

北門が正門(クローバープラザ付近)。県道31号までのびる道路は「ベース通り」と呼ばれ、板付基地との間をジープやトラックが絶え間なく往復していた。

東門(現在の春日大橋)から西鉄白木原駅にかけては、バーや飲食店などが並び横文字ネオンが輝いていた。「大野城市史下巻」より。(P13)

(※ベース通りについてはこちらの記事も!↓)

こちらが北門正門(現クローバープラザ付近)の様子。

クローバープラザといえば!この付近で1969年に発見されたという、

「原町遺跡」のお話がありました。

それから東門の現在の様子がこちら。↓

しばし時は流れ、1954年。

朝鮮戦争は休戦に入り、基地では人員整理が始まります

米軍が独占的に使っていた板付飛行場でも民間機が初飛行するなど、基地は縮小方向へ。

そして1970年。↓

日米両政府は板付基地返還で合意するのでした

ここまでが書籍の前半部となります。

(※基地外のハウスは「オフベースハウス」と呼ばれていたとありました。つまり「オフベースハウス」=「春日ハウス」!?p15)

 

では後半部へ入っていきます。ここからは基地と関わりのあった人々の証言が多々記されており、

読み進めるにつれ当時の生々しい息遣いが聞こえてくるようです。証言の中からも気になるポイントをちょっと参照させていただきます(ありがとうございます)。

まずはこんな証言から。↓

日本人も60から80人の人が基地内「春日コート(日本人住宅)」に住んでいた(p21)

そして、

東門には日本人専用道路があった(p24)

なんてお話も。

また基地内には、

「春日レーン」と呼ばれるボーリング場があって(p27)

これは九州初のボーリング場なのだそう。場所はというと、今の春日市役所あたりだとか。

(春日市役所についてはこちらの記事も!↓)

はたまた、↓

今のハローワークの駐車場のところには下水処理場がありました(p30)

とも。ハローワーク付近の様子。↓

さらに、↓

春日原と白木原のゲートはそれぞれ「S-bar」「K-bar」と呼ばれており(p28)、

また春日原の駅前には、

天神街があり、2つのかまぼこ型アーケード街があって、どちらかが黒人系、どちらかが白人系だった(p28)

という貴重なお話もありました。

終わります。

※書籍【春日市内の米軍ハウス調査記録 米軍ハウスの世界 あのころ、春日のまちにアメリカがあった /春日ベース・ハウスの会編】より。