観客が喜ぶならなんでも【博多 川上音二郎/江頭光著】

書籍『博多 川上音二郎/江頭光著』を読みましたので、今回はそのお話をしたいです。こんにちは。

いつものように、書籍内の気になる箇所を参照させていただきながら(ありがとうございます)、川上音二郎について学んでいければと思います。

よろしくお願いします。では始めます。まずは川上音二郎の出生から。↓

川上音二郎は1864年に中対馬小路に生まれました

音二郎が生まれた当時というのは、

下対馬小路の北は砂浜が広がり白波が打ち寄せていた(p26)

とのこと。ちなみにこの地区一帯というのは、

富裕な老舗が連なり、川上家は染料原料を船で運び黒田藩に納めていた。音二郎が成長するにつれ家運は急速に傾いていきました

この頃の博多は、↓

まだ岡新地と呼ばれた中洲那珂川べりの、黒田藩精煉所周辺に展開した西欧文明が芽吹く、中洲開化である(p52)

そんな時代。音二郎はというと、

大阪へ向かい、京都で巡査になります。立憲政党新聞が発行されると、巡査をやめ新聞の名義人になりました(p55)

とありました。世は自由民権運動に燃え上がり、その流れは九州にも及びます。↓

政治結社向陽社が発足(p57)、玄洋社と名を改める

(※玄洋社についてはこちらの記事も。↓)

のち新聞社を辞めた音二郎は、↓

福地源一郎率いる立憲帝政党に入党、次に自由党に入党

あちこちを飛び回り演説をしては拘置される、その繰り返し。服役中に音二郎は心機一転し、博多教楽社にて滑稽演説を披露。

御笠川河口左岸の遊女学校でも来賓演説することに(p68)

(※柳町遊郭についてはこちらの記事も!↓)

大坂へ向かうと、↓

井筒座の高座で時事風刺を自作自演。オッペケぺ節が大流行します(p72)

京都へ戻った音二郎は、↓

書生仁和加の一座編成にとりかかる(p88)。これは大坂・博多系の狂言にわかであり、横浜で旗揚げをするのでした

この時、音二郎27歳。

念願かなって東京の檜舞台にたち、連日満員に

音二郎には福岡出身の金子賢太郎の援助があったとも(p98)。

人気はうなぎのぼり。その当時、楽屋へ足しげく通っていたのが奴。音二郎のパリ観劇視察の渡航費は奴が引き受けた(p112)

といいます。その奴と音二郎は結婚、仲人は金子賢太郎でした。そして、

音二郎は第1次海外公演へ向かることに。その際、貞は貞奴の芸名で「道成寺」を踊ったのでした

一行はアメリカ大陸を西から東へ旅興行を続けたのち、↓

次に大西洋を越えて英国を目指します(p160)。日本人で初めて英王室に接見し(p167)、究極の目的地パリへ

パリではフランス芸術勲章を受章。のちベルギーへ向かいロンドンに戻ったあと帰国するのでした。

 

その後、第二次海外公演を行いロシアでも公演。帰国後は、↓

博多教楽社で第三回帰郷公演。貞奴が初めて博多の舞台に立つことに

学生らを無料招待して第四回帰郷公演を行い、さらに第三次海外公演へ。↓

帰国した貞奴は帝国女優養成所を開設し、また音二郎は独力で帝国座を建設するのですが、

しかし音二郎は持病が悪化。↓

手術するもそのまま息絶えることになるのでした(p270)。博多承天寺に埋葬。47歳

音二郎が亡くなったしばらく後には、貞奴にスキャンダルが。

電力王と呼ばれた福澤桃介との交際(p282)。そして貞奴は引退。75歳の時、熱海の別邸で生涯を閉じるのでした

さて、音二郎の福岡での痕跡はといいますと、まず、↓

音二郎生家近くの沖浜稲荷神社に誕生碑が

こちら沖浜稲荷神社。↓

(※沖浜稲荷神社についてはこちらの記事を!↓)

それから、

櫛田神社に邸宅寄進碑が。

こちら櫛田神社。↓

(※櫛田神社についてはこちらの記事も!↓)

また、

上川端商店街入り口にはオッペケ姿の坐像が

こちら音二郎のオッペケ姿。↓

(※オッペケ姿の坐像についてはこちらの記事も!↓)

そして、↓

承天寺に、音二郎の墓碑があります

承天寺。↓

(※承天寺についてはこちらの記事も!↓)

終わります。

(※書籍「博多 川上音二郎/江頭光著」より参照させていただきました。ありがとうございます)