黒田義隆はいったい何がしたかったのか【御自作天満宮】
前回の続きです。
前回、私は筑紫野市にある【武蔵寺】(→藤原だから藤。たしかに!!【武蔵寺】)、そして↓
【紫藤の滝】を訪ね(→滝と衣掛は基本セット的なとこあるよ【紫藤の滝】)、それから↓
そばに鎮座する【御自作天満宮】の鳥居をくぐったのであった。今回はその続きのお話です。↓
境内には「天拝白梅」。後ろは社務所かな。↓
『御神徳の一例』という説明書きがあって↓
読んでみるとこんな具合。↓
黒田義隆(如水)が筑前国の領主になり【御自作天満宮】に参詣した際、御神殿の扉を開け、中に安置してあった菅公の御木像につばを吐きかけました。
そして↓
私は領主である。罰が当たるというのなら当ててみよ、とののしって立ち去りました。翌日、再び義隆が確認してみると御木像の姿はなく、季節外れの寒紅梅が咲き乱れていたのでした。
すると義隆は↓
罪滅ぼしとして、自身の名を石板に刻み、社前に埋め、参詣人に踏ませたのでした。その石はまだ地下にあるといいます。
とのこと。
こちらにも説明書きがありましたので↓
読んでみます。↓
【御自作天満宮】は天拝山の麓に鎮座。御神体は、菅公が『武蔵寺』にご参籠の時に自ら御尊体を彫刻し(天神の森)同寺境内に安置。その後当地に奉遷し現在に至ります。
また↓
神社はたびたび火災にあい、古来の由緒等焼失したけれど、御自作の御神体は損傷なく現存しています。社殿、拝殿はのちに再建されました。
祭礼日には扉が開き御尊像を拝礼できるのだそう。↓
ちなみに自然公園の園内にも看板があって↓
そこには、こんな記述がありました。↓
菅原道真公が無実の罪を訴えるため自らの像を刻んだとされることから「御自作」。元禄5年(1692)には焼け残った頭部をもとに、御笠郡郡司の立花益弘が体を復元したとされています。再興されたことから「新天神」といわれ、上宮へ登ることが出来ない人たちのための参拝所にしたとも伝えられています。
本殿。↓
そばに鎮座するこちらは、境内社の『老松神社』で↓
境内奥を進んでいった先には↓
『白瀧稲荷大明神』。↓
振り返ると、こんな景色で↓
社殿があって↓
拝殿。↓
ここで行き止まりかな?↓
ここにも祠がありました。↓
内部を失礼して。↓
それでは下ることにします。↓
というか、もう帰ります。なぜなら疲れたから!↓
次回訪れる時には↓
天神さまの径から↓
天拝山を登ってみたいな。では、お疲れ様でした。またいつか。
天拝山(後日)のお話はこちら!(→久しぶりに天ぱりましたわあ 01/02【天拝山】)
【御自作天満宮】
福岡県筑紫野市武藏623