これがあの徐福伝説か!(分かってない)【童男丱女岩】

これまで数回に渡って日田街道を辿っているわけですが

その道すがら、細い小道の脇にこんな案内板が出ていて↓

そこには『童男丱女岩』そして『柴田古城址』と記してありました。

せっかくですので、訪ねてみたい。今回はそのお話です。↓

この難しい漢字は「どうなんかんじょいわ」と読むらしい。

 

というか!!誰よ!!こんにちは!!↓

通りの先へ進んでいくと、小さな森のような丘のような山のような場所があって、こちらが『柴田古城址』のようです。↓

説明書きには、こう書いてありました。↓

柴田城址。鎌倉時代・南北朝時代、菊池武光らの砦か?戦国時代末期は、筑紫広門氏の出城で、その家臣の村山近江守の子である弾正の城であった

さらに先を目指します。岩っっていうくらいだから岩がある筈なんだけど、この巨石は庚申塔で岩じゃないよ。↓

案内によれば、目的の『岩』は神社とお寺の先にあるらしく↓

このまま通りを奥まで進むと「西方寺」があって↓

その裏手に「高木神社」が鎮座している。↓

その神社の脇に再び案内板が立っていて↓

ん!?山!?登山!?↓

説明書きにはこんな記述が。↓

童男丱女岩は、徐福伝説ゆかりの地。二千年前に中国を統一した始皇帝が不老不死の神山、神薬を求めて東に向かわせた大船団のこと

そして↓

10歳くらいの童男童女をのせた数十の船の多くが有明海に入り、想像すれば、一行は小さな船に乗り換え、宝満橋あたりに止め、宝満川をさかのぼったと考えられます

どうですか。良くわからんけども。ちなみに、宝満橋は前回渡りましたね!なんだか同じルートを辿っていて親近感。↓

とにかく登山ルことにしましょう。↓

こっちこっち。↓

山の中はああ気持ちがいい。↓

しばらくすると東屋みたいなのがあって↓

到着とか書いてある。↓

ふーん、いい眺めじゃん、とかいってると↓

ここにも案内板があって↓

さっきのお話の続きが書いてありました。↓

中国では、徐福集団が日本に着いたか疑う学者もいますが、多くは史実だとされています

こちらには『友好門』と書いてある。日中友好的なこと!?↓

ところで岩は!?と思って探してみたんだけど、結局、岩らしきものは見つからなかったのであった。↓

ここからさらに進んでみると↓

「蘆城城の跡」があるらしく。↓

こっちの「宮地岳方面」は、またいつかどこかで別の機会に。↓

んん。この一帯が「蘆城城の跡」ということなのかな。ナゾは深まるばかり。↓

とにかくお邪魔しましたということで、下山!!↓

ところで肝心の徐福伝説なんですが。いったいなんだったんです!?
次回から、再び日田街道に戻ります。↓


【童男丱女岩】

福岡県筑紫野市天山