そんなこととは露とも知らず【武藤資頼資能供養塔】
前回の続きです。(→だいたい学校院に入院できない【大宰府学校院跡】)
前回、福岡県太宰府市の『観世音寺』そばにある「歴史の散歩道」を左へと進んで、【武藤資頼・資能(すけより・すけよし)の供養塔】なる場所を目指していたんです。↓
その道中に『学校院跡』を発見した私は、そこでふと、かつてこの地で勉強を頑張っていた学生を想って、しんみりしていたのであった。↓
さて、気分もなんとか落ち着きましたので、再び供養塔を目指したいと思います。
『学校院跡』から少し西へ進むと、案内板が立っていて↓
その案内板から右へ折れて、山のほうへ向かいます。↓
すると石柱があって、その奥のほうは原っぱというか空地が広がっていて↓
そこにも案内板が立っていて、「武藤資頼・資能の墓」そして「大野城跡」と書いてありました。↓
原っぱの奥は薄暗い森。その中へ入っていくと供養塔(お墓)があり、さらに進めば「大野城跡」へ向かう登山道である、ということをこの案内板は示している。↓
地面は濡れて土がヤな感じ。しかも滑りやすいんだけど、頑張って森の中へと入ってみると、そこには石像というか石碑が建っていて↓
このまま真っ直ぐ行くと、『大野城跡』へ続いていくというわけです。↓
そしてこっちの左の階段なんだけど、果たしてどこへつながっているのか。残念ながら私は知りません。↓
さて、説明書きがありますので↓
読んでみたいと思います。まずは武藤資頼(すけより)に関する記述があって↓
建久年間(1190年代)に鎌倉幕府から守護職として九州に派遣された関東御家人。宰府守護所を大宰府に置き、武藤氏は大宰府の官職「少弐」を歴代継いだことから少弐を名乗るようになりました。博多承天寺の建立でも知られます。
とのこと。左端の石塔が資頼のお墓なんだそう。↓
そのお墓の説明はこんな具合。↓
75.5cmの五輪塔。笠部の火輪とその下の水輪は一体。台座の地輪を含めて各四方に円窓の中に蓮華座に座る仏が刻まれています。
次は、資能についての記述。↓
資頼の子。元寇時の少弐氏(武藤氏)当主。異国警固の最前線を預かり、文永弘安の蒙古襲来に参戦。その際の傷で84歳で没す。横岳崇福寺や大宰府安養寺を建立。
資頼供養塔の右側、写真では左端が資能の供養塔。↓
そしてその説明。↓
こちらの供養塔は、明治時代までは横岳崇福寺にありました。
その隣りにはそれぞれ、「武藤経資の供養塔」同じく「武藤経資の供養塔」さらに↓
「元寇700年を記念した石碑」が並んでいるという形。↓
より詳細を知るべく「西都太宰府・九州国立博物館」のHPを参照してみますと、こんな記載がありました。↓
観世音寺の北にある観世音寺四十九子院跡のひとつといわれる安養寺の跡地の一角には、武藤資頼・資能の墓と伝えられる五輪塔と宝篋印塔が並んで建っています。
そう、つまりここはかつて資能が建立したという『安養寺』の跡地。そういえば案内板のところに↓
ヒントがあったのであった。今思えば。↓
【武藤資頼資能供養塔】
福岡県太宰府市観世音寺4丁目16-20