だいたい学校院に入院できない【大宰府学校院跡】
前回の続きのお話です。こんにちは。
さて、福岡県太宰府市にある『観世音寺』のその裏手には、『歴史の散歩道』なる小道が通っていて(→玄昉のお墓で観世音寺訪問もおしまい【観世音寺06】)↓
右へ進むと『日吉神社』が鎮座しており(→怒らせたらダメな人を怒らせる【日吉神社/観世音寺05】)↓
真ん中を真っ直ぐ進んでみると、前回訪ねた『弘法水』に辿り着きます。(→源氏物語なら読んでみたかった【弘法水】)↓
で、今回は、残るところの左へと進み、【武藤資頼・資能(すけより・すけよし)の供養塔】を訪ねてみたいと思います。↓
そこでさっそく左へ進んでいくと、通りの途中に案内板と石碑を発見。↓
そこにはなにやら『大宰府学校院跡』と記してありました。↓
まずは案内板を読んでみたいと思います。↓
学校院(府学)は古代律令官制機構を支える大宰府の役人の養成機関。西海道(九州)諸国の郡司の子弟を対象。天応元年(781)の太政官府には医生・算生200余人が学んでいました。
地図で見ると、こんな具合。↓
せっかくですので、向かいの通り『政庁通り』から、この『学校院跡』を見てみると↓
するとこういう具合になっている。水田のようです。↓
こちらにも案内板があって、こちらにはこんな記述がありました。↓
学校院は西国の役人を養成する機関。この地区の小字名『学業』から、学校院があったと考えられています。中国の「五経」「三史」とった書物を教科書に、役人として必要なことを学びました。学生は試験に合格すれば役人に採用。
また、この地区からは華麗な文様の「せん」と呼ばれるタイルの焼き物が出土したのだそうで↓
それは外国の影響を感じさせるデザインなのだとか。さらに、この地では10数棟の掘立柱建物跡も見つかっているとのこと。
ちなみに、南北方向にあるという「溝」は、11世紀に「観世音寺」と「学校院」が土地の境界を争ったという『松崎小溝』と呼ばれるものらしい。↓
こちらは、古代の参考書とされる『魏徴時務策』に関係した木簡が、大宰府政庁から発掘されていますよと。学校院跡ということで、ザ学校っていう出土品です。↓
なんだか私たちが暮らす現代とあまり変わらない暮らしぶり!?学生は今も昔も大変です。大変じゃない人もいるけど。
そして、そんな学生のみんなは、もうとっくの昔にいないっていう。当たり前だけど。
さて、しんみりしたところで。目的の地である「供養塔」を引き続き目指したいと思います。
でも続きは次回!!よろしくどうぞ。
続きはこちら(→そんなこととは露とも知らず【武藤資頼資能供養塔】)
【大宰府学校院跡】
福岡県太宰府市観世音寺4丁目1