だいたい学校院に入院できない【大宰府学校院跡】

前回の続きです。

福岡県太宰府市にある『観世音寺』(↓)のその裏手には

『歴史の散歩道』なる小道が通っていて↓

右へ進むと

『日吉神社』(↑)が鎮座しており↓

真ん中を真っ直ぐ進むと

前回訪ねた『弘法水』(↑)に辿り着きます。↓

で、今回は、残るところの左へと進み、【武藤資頼・資能(すけより・すけよし)の供養塔】を訪ねてみたいと思います。↓

さっそく左へ進んでいくと、通りの途中に案内板と石碑を発見。↓

『大宰府学校院跡』と記してありました。↓

案内板を読んでみますね。↓

学校院(府学)は古代律令官制機構を支える大宰府の役人の養成機関。西海道(九州)諸国の郡司の子弟を対象。天応元年(781)の太政官府には医生・算生200余人が学んでいました

地図で見ると、こんな具合。↓

ちなみに向かいの通りである『政庁通り』から、この『学校院跡』を見てみると↓

こういう具合になっている。水田のよう。↓

こちらにも案内板があって、こんな記述がありました。↓

学校院は西国の役人を養成する機関。この地区の小字名『学業』から、学校院があったと考えられています。中国の「五経」「三史」とった書物を教科書に、役人として必要なことを学びました。学生は試験に合格すれば役人に採用

この地区では華麗な文様の「せん」と呼ばれるタイルの焼き物が出土したそうで↓

それは外国の影響を感じさせるデザインなのだと。また10数棟の掘立柱建物跡も見つかっているのだと。

 

南北方向にあるという「溝」は、11世紀に「観世音寺」と「学校院」が土地の境界を争った『松崎小溝』と呼ばれるもの。↓

古代の参考書とされる『魏徴時務策』に関係した木簡が、大宰府政庁から発掘されていますよと。ザ学校っていう出土品。↓

学生は今も昔も大変です。

そして、その学生のみんなは、もうとっくの昔にいないっていう。当たり前だけど。

さて、しんみりしたところで、目的の地である「供養塔」を引き続き目指したいと思います。

続きは次回!!↓


【大宰府学校院跡】

福岡県太宰府市観世音寺4丁目1