旧大名町一帯が大名界隈【大名界隈/柳猛直・財部一雄著01】
書籍『大名界隈/柳猛直・財部一雄著』を読みましたので、今回はそのお話をしたいです。
いつものように、気になる箇所を参照させていただきながら(ありがとうございます)、大名界隈の歴史について学んでいければと思います。

よろしくお願いします。では始めます。まずは「城内」地区のお話からとなります。
大名界隈とは、旧大名町周辺という意味。大名町と呼ばれた通りには高禄の武士の屋敷が立ち並んでいました
とあって、そもそも福岡の町は、↓
城郭が築かれて大急ぎで造成された城下町である。住民も「お連れ戻し」と呼ばれる播磨の人、豊前の人が多かった(p2)
とのこと。(※黒田家についてはこちらの記事も)
関ヶ原の戦いでの論功行賞で豊前から筑前に入った黒田家は、↓
小早川の居城であった名島城を移り福岡城を築城します(p9)
(※名島城のお話はこちらで!↓)
(福岡城のお話はこちらで!↓)
それから260年、↓
幕末の藩主黒田長溥は開国の利を説くも、世の情勢は二転三転。そんな中、乙丑の獄が発生します。一方、大政奉還が起こると今度は佐幕派に対して切腹を命令するのでした
(※乙丑の獄についてはこちらの記事も!↓)
明治19年になると、
福岡城内に小倉歩兵24連隊が設置
戦争が終わると、↓
城内に平和台が建設されます。のち競技場建設中に鴻臚館の遺構が出土
この鴻臚館というのは、↓
もともと筑紫館と呼ばれる外国人や使節・官人の使節が、平安時代になって鴻臚館となったのでした
(※鴻臚館のお話はこちらでも!↓)
といったところで、ここまでが「城内」のお話でした。次ha「大名1丁目」地区を見ていきましょう。↓
旧大名町の表通りが現在の大名2丁目で、その裏通りの一帯が大名1丁目。神屋宗湛が秀吉にさしあげた長浜鱸は、国体道路沿いあたりでとれたものだという
とのこと。(※神屋宗湛についてはこちらの記事も!↓)
また宮本武蔵にまつわるお話もあって、↓
55、56歳になった宮本武蔵は筑前福岡へやってきました。黒田家に召し仕えられたかったが話は立ち消えになり肥後へ向かったのでした(p26)
なのだそうです。
戦災にあわなかった大名1丁目地区には古い町の姿が残っており、↓
大名1丁目は枡形町割り。旧城下町の特徴で軍事上の仕組みである(p27)
(※枡形町割りのお話はこちらの記事でも!↓)
さらに、界隈では河童にまつわるお話が伝わっているそうで、↓
医家の鷹取養巴の妻が厠に入ると、下から何者かが手をのばす。翌日にも手を伸ばすので、奥方その手をつかむと、手首から懐剣で切り落とす
続きます。↓
その夜更け。河童がやってきて手を返してくれと詫びをいう。養はしかりつけるも、手つなぎの秘宝と交換条件で手を返したのだった(p33)
(※河童のお話についてはこちらの記事も!↓)
(※鷹取養巴についてはこちらの記事も!↓)
といったところで「大名1丁目」のお話はここまで。それでは「大名2丁目」のお話に移ります。↓
旧藩時代、大銀杏で有名な飯田家東隣りに田代家がありました。その田代家に小春という腰元がいたけれど、ある時、大切な来客に粗相をしたので、主人は小春を手討にしたのでした
小春?手討?おやどこかで聞いたことのあるお話。続きます。↓
それからというもの、来客の際には貴重な茶碗や皿が失せる。客が帰ると元通りに。これは小春の祟りだと、庭に祠を建立
続きます。↓
現在は田代家も移住し、祠もなくなった。現在は南区大橋2丁目に「小春姫大明神」と名をあらためて祠を建立(p59)
そう、これは以前訪ねたことのある「小春大明神」ではないですか!(※小春姫大明神についてのお話はこちらの記事でも!↓)
私が以前訪ねた小春姫大明神の場所は福岡市中央区荒戸。

でも書籍には、もともと大名2丁目にあった小春姫の祠が南区大橋へと移ったとあります。

この書籍「大名界隈/柳猛直・財部一雄著」が発行されたのが1989年。つまり、小春姫の祠は1989年以降に大橋から荒戸へと再び移されたということでしょう。
さて、今回はここまで。書籍のお話の続きは次回に続きます。よろしくお願いします。
(※書籍「大名界隈/柳猛直・財部一雄著」より参照させていただきました)








